「書と共にある」
この言葉ほど、自分と書の関係性を表わすものはないように、今感じている。
かつては、もっと別の言葉を探していた気がする。
書道家なのか、書家なのか、表現者なのか、あるいは場をつくる人なのか。
どこに自分を位置づければよいのか、はっきりと言えなければいけないような気がしていた。
そうでなければ、何者でもないような気がしていた。
そんな悩みのような、悩みではないようなものに長らく漂わされてきて、ようやく、そういったものから解放されたような気がする。
—
書はコミュニケーションであり、手段だ。
と、少し前まで言っていた。
今もそう思っている。ただ、そう言い切るには、何かもの足りなさも感じていた。
そこに足りなかったのは、書との関係性だったのだと思う。
書はただ、そこに在る。
そして、私もそこにいる。
そのあいだに、無理のない関係がある。
—
書くという行為の中で、いつも起きていることがある。
うまく言葉にならない何かが、お腹の底に沈んでいる。
あるいは、喉の奥に引っかかっている。
それが、ある瞬間にふと、言葉に出会う。
ぴたり、と合う。
そのとき、呼吸が通る。身体がゆるむ。
少し涙が出そうになる。
「そうか、これだったのか」と思う。
その言葉は、説明ではない。慰めでもない。
私にとっての「確かなもの」がそこにある。
—
書くというのは、その「確かさ」を、この世に出す行為に近い。
整えることでも、飾ることでもない。
むしろ、余計なものを削ぎ落としていく。
ごまかしは、線に出る。
迷いは、にじむ。
身体は正直だ。
だから書は、厳しい。
でも同時に、誠実でもある。
私は、その厳しさと誠実さに救われ続けている。
—
書く理由を問われたとき、
「残したいから」とは少し違う気がする。「誰かに届けたいから」とも何か違う。
名を刻みたいわけでもない。評価されたいわけでもない。
ただ、生まれたものを、生まれたままにしておきたくない。
言葉になったのなら、ちゃんとこの世界に置いてあげたいのだ。
—
ときどき思う。
もし書がこの世からなくなったら、どうするだろうかと。
きっと、別の形で同じことをするだろう。
言葉を探し、何かに触れ、それを外に出す。
それでもやはり、少し寂しいと思う。
それは、書に依存しているからではない。
書そのものに、親しみを感じているからだ。
長く一緒に過ごしてきた相手のように、
そこにあることで呼吸が整う存在。
—
書道という世界の中で生きようとは、あまり思っていない。
評価の軸や制度の中に身を置くことに、強い魅力を感じているわけではない。
けれど、漢字の持つ時間の厚みには、深く慰められる。
古代から連なってきた形に触れると、自分の感じていることが、決して孤独なものではないと思える。
私は制度とは距離を取りながら、時間とはつながっていたいのかもしれない。
—
書と共にある、というのは、
上に立つことでも、使いこなすことでもない。
並んでいる、という感覚に近い。
書が私を整え、私が書に触れる。一緒にそこにある。
共生と往復の中で、少しずつ確かなものが増えていく。
—
私はこれからも、うまく言葉にならないものに出会うだろう。
そしてまた、ぴたりと合う言葉に救われるだろう。
そのたびに書く。
それだけのことなのだと思う。
—

書と共にある人として。