朝起きてから夜寝るまで、現代を生きる私たちは様々な情報にさらされ、また自ら摂取している。

時にめまいを感じる程の一日の情報量は、江戸時代の人間の一年分、平安時代の人間の一生分らしい。

どうりでこんなに疲れるはずだと思いながら、右手にあるスマートフォンを中々机に置けないのはなんでなんだろう。

情報が多いということは、発信そのものが多いということだ。

なぜ発信が多くなっているのか。そこには様々な理由があるように思うし、一昔前までは発言出来る場所や人が限られていたことを思えば、開かれた良い時代になったとも言える。

事実、発信によって解放されるものは多いように感じる。

その一つは働き方かもしれない。

これまでは仕事=会社に属することだったかもしれないが、個人での発信が仕事に繋がるケースも出てきて、仕事の選択肢が広がり、より色々な人が自分のやりたいと思うスタイルで出来るようにもなってきているのだろう(例えばYouTuberとか。ハンドメイド作家さんとかも)。

私自身、SNSやHPを通じて書のご依頼いただくこともあり、大いに恩恵にあずかっている。

ただ、そんな中で少しだけ、ずっと違和感なのが、発信ばかりが良いことのように言われているように感じることだったりする(私のアンテナがそういう方向に立っているだけなのか)。

こういう時代だからこそ、実は”受信”というものこそ、大事なような気がしてならない。

誤情報、偽情報への注意、ファクトチェックの重要性はそこかしこで謳われているけれど、それよりもっと大きな意味での”受信”の大切さを認識しないといけない気がしている。

受信の量と質。本当はそれらをコントロールして、無理のないように自動的にオンオフが出来るようになれていたら良いのに、残念ながらそういう変化はまだ体に起こってない。

つまりは意識的にそれらをコントロールする必要がある。そうでないと、めまいどころじゃすまない。それらはやがて頭痛になり、精神をもじわじわと圧迫していく気がする。

今圧倒的に足りないのは、適切な受信と、それによって生まれる余白であり、呼吸なのではないかと思う。

ノートを取るといったら、もはや紙の本とシャーペンではなく、PCでnoteを開いてカタカタやる時代になってきている中、私がわざわざ筆を持つ理由は、そんなところにもあるように思う。

筆を持つことは、インターネットと言う接続から意識的に離れることを意味する。

息を吸い、吐いて、墨を磨る。そして筆をとり、自分の中にあるものを表現していくこと。

その一連のプロセスはインターネットが展開する前の”受信”と”発信”であり、人にはそれらがまず必要なのではないかと、考えたりする。少なくとも私にはなくてはならないものだなと。

”書”の面白いところは、書いたその瞬間に、そこに余白が生まれること。

埋め尽くさない。目に見える形で余白が生まれる。

余白は、自身のみならず、他を受け入れるスペースでもある。

余白を内包する、”書”という表現形態を通じて、自身や他者への理解とコミュニケーションを深めていきたい。そんな風に思うし、それは筆で表す”書”に限らず、こうしてPCでタイピングする”書”においても同様だ。

これから少しずつ、思うことを最適な形で書いていけたらと思うので、お付き合いいただけると嬉しいです。

 

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